「招き館の殺人」問題編A ─過去─
著者:月夜見幾望


 <過去───1年前>


   1

 この時期にしては珍しく、記録的な豪雨だった。
 外界とは閉ざされた空間にいる住人たちには知る由もなかったが、昨晩の雨は近年稀にみる局地的な集中豪雨で、山の急斜面で勢いのついた濁流は低地に位置する住宅地をことごとく浸食し、まるで人工物に溢れた街を浄化するかのごとく、車や街路樹などを押し流していった。その出来事は関東地方のローカルニュースではもちろんのこと、夜の全国ニュースでも取り上げられたほどだったが、河川の増水や氾濫は予想以上に勢いを増し、消防隊員の救助活動を妨げる大きな要因となっていた。
 ここ招き館でも豪雨の影響は色濃く、館を取り囲む赤茶色の煉瓦塀はあちこちで綻びを見せ始め、その強固な遮断面にまもなく穴を穿とうとしている。また山間から吹き下ろすダウンバーストで木々は変形の臨界点まで大きくしなり、山全体が聞き苦しい悲鳴を上げていた。空を眺めても、もはや呪いか何かかけられたのではないかと思うほど黒一色で塗りたくられ、時折閃光が駆け抜けると共に館中を震わせるほどの雷鳴が轟いた。
 館の中にいる誰もが、そんな荒れた天気に辟易し、ただただ一刻も早く夜が明けるのを待つばかりだった。
 古い西洋風の洋館。しかし、建築様式に関して言えば、昭和初期当時、この辺りでかなり名を馳せていた有名な日本人建築家に依頼したせいもあってか、典型的な擬洋風建築の造りとなっている。左右対称の外観。等間隔で並ぶ大きな窓。正面入口上部に造られたバルコニー。多種の木々が植えられた中庭。
 中でも一際目立つ中央の塔屋。その内部に広がる大きなホールに設えられた丸テーブルを囲んで座っているのは、合わせて五人の男女。しかし、だれもが閉口し、ホールには重苦しい沈黙が居座り続けるのみである。年季の入った古時計が針を刻む音も、すぐに分厚い灰色の絨毯に吸い込まれ、外の大嵐の激しさとは対照的に、空気の死んだ───お通夜のような雰囲気に包まれていた。そんな中、これまた煉瓦塀と同色の壁に取り付けられた蝋燭の炎をぼんやりと見つめていた色白の男が不意に口を開いた。

「雨、止みませんねえ……。どうにかして気象情報を知る術はないのですか、古谷(ふるたに)さん。せめて、この大雨がいつ頃止むのか分かれば、まだ気が楽になるって言うのに……。死んだ女の亡霊が彷徨歩くこの館で、その影に怯えながら一夜を過ごすのはまっぴらごめんだ」

 最後のほうは吐き捨てるように言う。彼の台詞の中に登場した「死んだ女の亡霊」という言葉に、テーブルを囲んでいた者全員が、びくっ、と肩を震わせた。その反応はもはや反射神経と言っても過言ではない。彼らの深層に深く刻み込まれた爪痕から滲み出る恐怖の色。「彼女」のことを思い出すだけで、トラウマめいた感情が全身を駆け巡り、慄然とする。
 無理もない。嵐に見舞われた一夜。外界とは隔絶された空間の中で、彼らは実に奇妙な体験をいくつもしたのだから。
 廊下にずらりと並ぶ、物言わぬ招き人形たち。切断された電話線。館内を徘徊する女の亡霊。「彼女」が消えた後に残される女の長い髪の毛。血に染まった人形。同じく血で描かれた謎めいた脅迫状。そして館の二階から転落した一人の男……。
 それらの一連の出来事は彼らの恐怖心を煽るのに充分すぎるものだった。
 女の霊は本当に存在するのか? この館に招かれざる第三者、つまり外部の人間の仕業ではないのか? それとも、ここに集まった者たちの中に、これだけの「事件」を起こした張本人が潜んでいるのではないか? 現場に残された髪の毛は何を意味するのか?
 疑問は、枯れない湧水のように後から後から浮かんでくる。体中を正体不明の恐怖に蹂躙され、誰もが疑心暗鬼に陥っていた。極めて神経質になっていた古谷という初老の男性も、それ故自身に向けられた問いに対して咄嗟に答えることができずにいた。

「は? はあ……、いえ、申し訳ありません浜上(はまがみ)様。旦那様の意向に従って、当館に備えられていたラジオやテレビ等の受信機はすべて処分いたしましたので、どうかご辛抱願います」

 よく響くバリトンの声は、しかし疲れの色が滲み出ていた。実際、執事という立場である古谷からしても、外界の情報がまったく入ってこない今の環境を好んではいなかった。八尾邦人がもともと俗世を嫌う人間であることは古谷も小耳にはさんではいたが、彼がなぜそこまで外を拒むのかという理由について、詳しいことは何も聞かされていなかった。所謂「裏」の出来事に関与しているため追われているのではないか、というのはその筋に詳しい知り合いから得た情報であったが、彼に仕える立場である自分がそのことを問いただすわけにもいくまい。結果、そういった幾ばくかの不信を胸中に抱えながらも、主に対する忠誠心でそれを押し留めてきたのであったが、事態はそうも言っていられない状況になりつつある。

「まったく、邦人は何を考えているのか皆目見当もつきませんなァ。人目を忍んでこんな辺鄙な所にこそこそ隠れ住んでいるかと思えば、突然知人を招いたりして。それで意気揚々と来てみれば、突然の嵐で帰ることができない挙句、変てこな超常現象に巻き込まれると来たもんだ。こりゃあ、酒でも飲まないとやっていけませんなァ」

 でっぷりと腹の出た白髪交じりの中年男性が、頻繁に緩むベルトに手を伸ばしながら言った。
 河野修平(こうのしゅうへい)───八尾邦人の大学時代の友人であり、現在はとある大企業の下請け会社で働いている男だ。根っからの酒豪である彼は、稼いだ生活費を削ってでも世界各国のウイスキーやワイン・カクテル類を買い集めているらしい。そんな無類の酒好きである彼の言い分も分からない古谷ではなかったが、それでも一人が意識不明の重体であるこの時に酒を飲もうと提案する心情はさすがに理解しきれなかった。
 どうやら彼にはデリカシーの欠片もないらしい。いそいそと席を立つと、そのままホールの外へ出て行こうとする。

「河野さん。どこへ行かれるつもりなんですか」

 背の高い、やせ気味の男が弾かれたように立ち上がった。まだ青年と呼べる年頃の若者である。

「いやァ、この館の地下室にワインが保存されていると聞いたもんですからな。どんな種類が揃っているのか確認に行くだけですよ。どうですか、赤朽葉(あかくちば)先生も後で一杯」
 
 館をまるで自分の所有物であるかのように好き勝手なことをしようとする河野に対して、赤朽葉は半ば呆れた様子で、

「いえ結構。僕はお酒には弱い体質なんでね。ただ、無暗に館を歩き回るのは遠慮していただきたい。こちらとしても、あなたが犯人なのではないかと疑いたくなる」
「先生は、あたしを疑っておられるんですかァ。そりゃあ、お門違いってもんだ。先生も見たでしょう? 死んでなおこの世に未練がましく居座り続けている女の霊を。あれとあたしをイコールで結ぶのはちょっと無理があるんじゃないんですかね。須川(すがわ)君が突き落とされたベランダに残されていた長い髪の毛にしたってそうだ。ありゃあ、間違いなく犯人が女性であるという証拠ですよ。疑うなら、あたしよりも竜胆(りんどう)さんの方が妥当だと思いますがね」
「なんですって!」

 いきなり容疑の目を向けられた───インディアンレッドのフレームの眼鏡をかけた、いかにもキャリアウーマンや秘書と言った知的な雰囲気を纏っている───女性がいきり立った。

「そこまで言うのなら是非教えてもらいましょうか。霊が現れた時も、脅迫状が描かれた時も、須川さんがベランダから突き落とされた時も、完璧なアリバイがあるこの私にどうやって犯行が可能だったのかを」
「い、いやぁ、それは、その……」

 彼女の鋭い剣幕に、河野はたじろぐ。そんな彼に、彼女はさらに反論の矢を放った。

「それに、怪しいというのなら、ずっと部屋に籠られているここの主人の方がよっぽど怪しいと思いますけど。館の構造を熟知している八尾氏なら、ひっそりと一連の犯行を行うことが可能だったのではなくて?」
「失礼ですが、その可能性はございません」

 加速する彼女の熱にストップをかけたのは古谷だった。

「旦那様は昨年の秋ごろから足の調子を悪くしており、部屋から出られる時は私が常に傍につくようにしておりますので」
「それじゃあ……」
「───まったく、いい加減にしてくれ!!」

 それまで両手を組んで何か考え込んでいた浜上が怒鳴った。

「くだらない罪の擦り付け合いはもううんざりだ。今はそんな議論をしている場合じゃないでしょう。これ以上妙なことが起こるのを防ぐためにも、こうして一か所に固まって、嵐が止んだら山を下りて警察に知らせる───これが最も確実で安全な「防衛」対策だと思いますけどね」

 浜上は自分の意見が正しいことを確かめるように、一人一人の表情を窺った。最後に浜上と視線が合った赤朽葉は、ふと何かを思い出したような顔で、

「そういえば古谷さん。ご主人が部屋に戻られてからけっこう経ちますが、様子を見に行かなくてよろしいのですか」

 数時間前、八尾邦人は「しばらく一人にしてくれ」と言い残して書斎に閉じこもってしまったのである。主の身の安全を考慮して、古谷は彼の部屋の前で待機していようかとも考えたが、いかんせん夕食の後片付けや、明滅を繰り返す西廊下の照明の点検など仕事が山積みになっていた。書斎の鍵は八尾邦人自身が持ち歩いているものしかなく、外部の人間が中に入ることはできないだろう───そう判断して仕事に戻ったのだが、さすがに何時間も姿を見せないと、何かあったのでは、と心配になる。

「そうですね。では、私は旦那様の様子を見てくることにします。皆さまはここでご待機願えますか」
「いえ、僕も一緒に行きましょう。万が一、ということもありますから」

 万が一、とは、もちろん八尾邦人が何らかの理由ですでに手遅れの状態になっていることを意味するが、それがこの「事件」のラストを飾るのに相応しい、最も悪夢めいた最終楽章に当たると予想しえた者が、果たしてどれだけいただろうか。
 数分の話し合いの結果、古谷、赤朽葉、竜胆の三人が八尾氏の書斎へ、浜上、河野の二人は、念のため須川の容体を確認しに行くことになった。

「では、まいりましょう」

 古谷の後に続いて、塔屋から本館の二階へと繋がる空中の渡り廊下を急ぎ足で歩く。嵐の峠は越えたようだが、まだ横殴りの雨が容赦なく叩きつけられている。古谷は、ふと気になって中庭に視線を落とした。この「事件」の発端、女の亡霊が最初に目撃された場所である。もしかしたら、今も「彼女」が自分たちの行動を監視しているかもしれない───そう考えると身が震えたが、中庭に誰かが潜んでいるような気配はなく、異常といえば植え込みの一部が嵐によって飛ばされているくらいであった。
 渡り廊下から本館の東廊下へと入った彼らは、そのまま灰色の絨毯の上を一直線に北東の角部屋、すなわち目的の書斎へと急ぐ。

「旦那様、中におられますか? 旦那様」

 書斎と彼らを隔てる赤銅色の大きなドア。そのドアを軽くノックしながら呼びかけてみても、中からは物音一つ返ってこない。窓を激しく打つ雨音が余計に大きく響き、嫌でも彼らの不安を増大させる。

「旦那様!」

 今度はノブを回しながら叫んだが、ドアにはやはり鍵がかかっていて開けることができなかった。そうなると、書斎に入るためには古典的なやり方を使う以外に方法はない。

「赤朽葉様。少し協力してくださいますか」
「ええ」

 幸い、ドアは内開きになっていたので、大人二人がかりの体当たりの成果が見込めた。廊下の端ぎりぎりから助走をつけて体当たりを繰り返す内、強固なドアも悲鳴を上げ始め、そしてついに破ることに成功した。そのままの勢いで半ば雪崩れ込むようにして書斎に入ったのは良いものの、すぐには八尾氏の姿を見つけることができなかった。
 書斎の中央に設えられた立派なソファ。東側の壁に設置されているやや古びた本棚とラック。ナイトテーブルの上のスタンドはライトがONの状態になっていて、ついさっきまで確かに人がいたということを示している。

「変ですねぇ……。まさか、もう書斎から出られたのでしょうか」
「いえ、そのようなことは……。旦那様が普段使っておられる杖が置いたままになっていますし、その状態ではまともに歩くことも叶いません。先ほども申し上げましたが、だからこそ、ここ半年の間、私が傍に付いていたのです」
「しかしですねぇ、古谷さん。現に八尾氏は部屋のどこにも……」

 言いかけて、赤朽葉は竜胆が北側の壁の一点を見つめて凍りついているのに気付いた。

「どうしたんですか、竜胆さん」
「あ、あれ……」

 彼女が指さす方向で視線を移すと───

「ああ、なんということだ……」

 古谷が呻く。
 それは「人間の足」だった。北側の壁に掛けられた名画、そのすぐ下から人間の足首より先だけが突き出ていたのである。それはまるで、出来の悪い一種の美術品、もしくは奇妙なオブジェのようだった。普通に考えて、「足」はおそらく八尾氏のものだろうが、足を除く体の部位すべてが壁に埋まっている様は、想像するだけで恐ろしい。
 さらに、である。「足」のすぐ下、赤いカーペットの上には例の───女の長い髪の毛が残されていたのである。それを見た瞬間、竜胆の精神の糸は、ぷつんと切れた。

「きゃあああああああ!!!!」

 館中に彼女の悲鳴が響き渡った。
 赤朽葉は動揺する心をなんとか静めると、冷静に室内の状況を観察した。まず、古谷氏と一緒に破ったドアに注目する。廊下にいた時、このドアは確かに内側からしっかり鍵がかけられ、完全に施錠されていた。その元となる鍵は八尾氏本人が持ち歩いているものしかなく、それはきちんとナイトテーブルの上に置いてある。部屋の窓は東側に一つあるだけだが、こちらも同様にしっかりと施錠が成され、誰かが侵入した痕跡は見当たらなかった。仮に窓が開けられていたとしても、その外側にはさらに頑丈な木製の格子が取り付けられているのだ。その格子の隙間を通ることなど、体の小さな子どもでも不可能に違いない。残る可能性としては、犯人がまだこの部屋に潜んでいるというものだが、どこをどう見ても人が隠れられそうな場所はない。
───ということは?

 赤朽葉が最悪の解答にたどり着いた時、廊下からばたばたと人が走る音が聞こえ、ほどなくして河野と浜上の二人が駆け付けた。おそらく、竜胆の悲鳴を聞き付けてのことだろう。

「一体どうされたんですか、大声を出されて」

 浜上が竜胆に問う。河野のほうは、まだ息が荒く、酸素を求めて深呼吸を繰り返していた。

「見ての通りですよ。八尾氏が何者かに殺害されました」
「なんと! それで犯人は誰なんです!?」
「それは分かりません。ただ、氏の足元に、今回も女の長い髪の毛が残されています」
「そ、それじゃあ、犯人はやっぱり、あの……」

 怯える河野に、赤朽葉は首を振った。

「結論を急ぐ前に訊きますけど、須川さんの容体はどうでしたか」
「相変わらずですよ。話かけてみても、うんともすんとも返ってこない。ありゃあ、死んでるのと同じですよ」
「……なら、これは完全な不可能犯罪ですね」
「どういうことです?」
「氏が殺されたこの書斎は、ドアも窓も内側から鍵がかかっていた───つまり、密室状態だったわけです。それについてはひとまず置いておくとして、仮に犯人が僕たちの中の誰かであると仮定しても、氏が部屋に籠られた数時間前からさっきまで、みんな塔屋のホールに集まっていた。故に犯行を行う時間はなかったということです。唯一、ホールにいなかった須川さんは、しかし、以前意識不明の重体のまま……。これらを踏まえると、いよいよ認めなくちゃならないようですね。───館を徘徊する女の霊の存在を」

 嵐に弄ばれた一夜。「事件」は最終形を迎え、彼らの前にその姿を現した。
 廊下にずらりと並ぶ、物言わぬ招き人形たち。切断された電話線。館内を徘徊する女の亡霊。「彼女」が消えた後に残される女の長い髪の毛。血に染まった人形。同じく血で描かれた謎めいた脅迫状。館の二階から転落した一人の男。そして、密室状態の書斎で殺害された館の主人……。
 




 そして一年の時を経て、「事件」は再び動き出す。



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